リース雑貨店〜感染〜

 

 

 

閣下実験体の第三進化確認いたしました。来月には人体実験移行する予定です」

 白衣を着た背が高く、黒縁の眼鏡をかけた男が言った。

 男の前には派手装飾が施された机と椅子が置いてあり、そこにはでっぷりと肥えた体を無理やりスーツに押し込めたような中年の男がニヤリと厭らしい笑みを浮かべながら座っていた。

 室内木製の壁で覆われて、柱は熟練した職人によって丁寧彫られたと思われる彫刻が施されている。床は金糸で龍を刺繍した赤い絨緞部屋全体に敷かれていた。

「そうか……仕事が速いな。スタイング君を所長に任命して正解だったよ」

「光栄です閣下

 スタイングと呼ばれた白衣の男が優雅に頭を下げる。

「それで――――実験体を見てみたいのだが……」

「さようでございますか……では、明日までにヘリを手配しておき、閣下BSL-4研究所にご案内いたします」

「そうか。よろしく頼むよ」

「わかりました」

 スタイングが礼をすると、閣下が扉のほうに軽く眼をやった。

 出て行けという合図である。

 スタイングはその動作を見るか見ないかのうちに、閣下の前から姿を消した。

 

 

 深い広葉樹林の森に一軒の小屋がありました。

 小さい煙突に薄いレンガ色の屋根、壁は丸太を組んだだけの手作り感溢れる小屋は人里離れたこの森には少し釣合いですが、とても森に馴染んでいました。

 小屋の前には小さな川が流れていて、川底が見えるほど澄み切っています。

 川岸には小さな手作りの木の看板が建っていて、汚い毛筆の字で『リース雑貨店』と書かれていました。

 今日快晴で空には雲ひとつありません。風はそよそよと優しげに吹いていて、木にはピンク色の蕾が少しだけ膨らんでいます。

 小屋の中は春の太陽が窓から差し込んでポカポカと暖かく。お昼寝をするには絶好場所になっていました。

 小屋の中では外の光景をぼんやりと眺めている一匹と、土色で少し汚い革張りのソファー毛布を被って震えている一人がいました。

 外の光景をぼんやりと眺めているのは、エゾオコジョという動物のテン。春の今は冬の白い毛が抜け落ちて少し茶色っぽい毛を生やしています。赤いスカーフをいつもつけているので遠くにいても見つけることが出来ます。言葉を話し、ここで働いています。

 毛布を被って震えているのはこの店の店主リースウィッチ。緑色の冴えない服に青いジーパンでいつも寝癖がついています。一日の大半は寝ているのです。

 そして、リース=ウィッチはなぜか魔法使いなのでした。

この物語はそんな一人と一匹のある日を日記に記したものです。

 

 

 ××××年 三月十四日(木) 今日日記担当 テン

 

 

「春だね……あの花が咲くのが今からとても楽しみだ」

 私は少しだけ膨らんできたピンク色の蕾をぼんやりと眺める。

 リースは珍しく風邪を引いていた。

 馬鹿は風邪を引かないと聞いたことがあるけど……たぶんそれは嘘なんだろう。

 だってリースは本当馬鹿なのだから。

仕方ない。お粥でも作ってあげるかな」

 今日の私はなぜか気分がいい。

 季節のせいか、リースが病に臥せっているのかわからないが……たぶん後者だろう。

 私の身長から部屋を見上げると何もかも大きく見える。テレビも机も椅子も……。すべて人間用で作られているのだからしょうがないことだ。いろいろと不便なことは多いけど慣れてしまえばなんてことは無い。

 私はおかゆを作るためにキッチンに向かうことにした。

料理は私の得意分野だ。この世に存在するどの料理にも負けないと自慢できる。

 そんな自慢料理を作れるキッチンに入り、人間用の大きなやかんを火にかけた。

 なぜ大きなフライパンを持ち上げて料理できるのかとよく聞かれるのだが、私にも実はよくわからない。この店に来る前はやかんの蓋すらすごく重く感じていたのに、この店の物は人間の持てるものであれば簡単に持ったり使ったり出来る。もしかしたら、リースの魔法のおかげかもしれないと私は密かに思っている。

 米櫃からもち米を三合ほどカップに取り、砥いで、炊飯に投入する。水は裏庭にある井戸から汲み上げている水を使用する。ミネラルウォーターもあるがリースごときに使用するのはもったいない。いつもより多めの水を入れてスイッチを押す。

 ピロリロリン

 森の中に佇む小屋には到底似合わない音が響いて炊飯稼動し始めた。

「よし、準備完了

 そう呟き、そのまま背中の後ろにある普通のものより少し大きい冷蔵にぶつかる。

 この冷蔵には昨日頑張って作ったハンバーグが入っている。

 今日はフィンさんが来る日なので多少奮発して高い肉にしたのだが……。リースにはかわいそうだが、恐らくすべてフィンさんに食べられてしまうのだろう。

 今回のリースは少し不憫だから風邪が治ったらまたハンバーグを作ってあげようと思う。

 お粥ができるまで暇なので私はお茶を飲みながら机で読書でもしようかと考えていた。

 自前のカップを準備し、ガラス製のポットの中に今朝摘んだばかりのヨモギの葉と桜の蕾を投入する。丁度沸騰したやかんの火を止め、火傷しないようにどんぐりの刺繍が入った手袋をはめてやかんを持ち、ポットに注いだ。

 初めは透明だったお湯がだんだんと若葉を連想させるような黄緑色に変わっていく。

 私はその様子を楽しげに眺めながら机にポットとカップを運んだ。

 

 

       * *

 

 

閣下! 準備ができました。BSL-4研究所に移動いたします」

「ふむ。わかった」

 閣下脂肪のたっぷりついた腹を擦りながら重い腰を上げる。

「いささか、ヘリの長旅はわしには向かんな」

 閣下言葉無言で頭を下げると、スタイングが扉を開ける。

 ゆったりとした無駄の多い動きで、外に出ると窓が一切ない長い廊下に出た。

 天井、壁、床のすべてがコンクリートで固められ白いペンキで塗装されている。

 窓がないためか、蛍光の数が異様に多い。

 先が見えないほど長い廊下が続いているのだが、扉は今出てきた場所以外一切ない。

実験内は電子機器危険物、飲食物の持ち込み、喫煙厳禁でございます。トイレもありませんので、入室前に済ませておいてください」

 スタイングは少々歩くのが遅い閣下スピードに合わせながら言った。

「トイレはさっき済ませた。タバコと携帯電話拳銃だけ預かってもらおうか」

 閣下ポケットから、半分ほどしか残ってないタバコの箱とライター携帯電話を取り出し、右腰に吊っている拳銃を抜いてグリップをスタイングの方に向けて渡した。

「ご協力感謝いたします。実験地下にございますのでこの廊下の端にあるエレベーターで降りてもらいます。地下につきましたら、消毒していただき、保護服に着替えた後二重ロックされたドアから実験内に入っていただきます」

 スタイングが喋った後、二人は黙ったまま歩き続ける。

 しばらく歩いていると、バイオハザードマークが付いた赤いエレベーターが見えてきた。

 白色の中から浮き上がってきたエレベーターは、まるで怪物の口のようである。

 エレベーターの脇には受け付けカウンターがあり軍服姿の白人男性が座っている。

 スタイングは閣下の持ち物をカウンターに置くと、それと引き換えに小さめの鍵を受け取った。

実験を出る際に預けたものをお返しいたします」

 スタイングは閣下の方を向いて説明するように言いながら、受け取った鍵をエレベーターのボタンを押す位置のすぐ下にある鍵穴に差し込み右に回した。

 軽いモータ音が聞こえ、少ししてエレベーターの扉が開く。

 スタイングはすばやく乗り込むと、ボタンを押して閣下が乗るのを待ち、扉を閉めた。

 エレベーターが軽く揺れてゆっくりと下降を始める。

「スタイング君。もし実験内でバイオハザード発生したらどう対処するのかね?」

 下降が始まってしばらく経過した頃、閣下がスタイングに尋ねた。

「即時実験内は閉鎖されます。取り扱っているウィルスは七百度で死滅いたしますので、閉鎖実験内に高圧力をかけて七百度にいたします」

「む――――」

 閣下は少し不安げな顔を浮かべる。

「ご安心をそうならないように細心注意を払いましたので」

「ふむ、なら良いのだが……」

 そんな不気味会話が行われている内にエレベーター地下へと到着した。

 

 

閣下いろいろとご協力いただき感謝します」

「なに、恐縮するでない。安全のためならば致し方ない」

 エレベータを降りたスタイングと閣下はすでに消毒を終え、保護服を着用し実験内に入っていた。

「で―――肝心の実験体はどこにおるのかね?」

 全身真っ白な保護服を着たスタイングに、同様な格好をしている閣下が尋ねる。

「この部屋にはおりません。この部屋実験体がいる部屋コントロールする部屋通称セクションTと呼ばれる部屋です。実験体がいるのはセクションV。もう少し歩かねばなりません」

 スタイングの言葉通り彼らが今いる部屋天井が高く、太い冷却水を送るパイプが縦横無尽に走っていたり、コードがごちゃごちゃと繋がった機械や、ボタンが大量についた機械しか見当たらない。おまけに部屋の中も狭いのでこんな所に実験体がいるわけない。

 スタイングと同じような白衣を着た研究員が何人かいて、軽く会釈をしていた。

 彼らは保護服を着ていない。セクションTでは保護服を着なくても良いようだ。

セクションUには何があるのかね?」

 閣下が再び尋ねる。

実験動物たちが死を待つ部屋ですよ」

 保護服の顔にあるプラスティックで表情がよくわからないが、恐らくニヤリと笑っているのだろう。

 閣下背筋に冷たいものを押し当てられたように身震いし、

「さっさと行こう。この後にもスケジュールが詰まっておるのだからな」

 と呟き少し歩くスピードを速めた。

「了解いたしました」

 スタイングも足を速めた。

 その後はセクションVに到着するまで誰も話さず、(実験動物の鳴き声はやかましいが)足早に歩を進める。

 ようやくセクションVの扉の前にたどり着いた。扉にはバイオハザードのマークが描かれていた。

 スタイングは保護服の胸ポケットからカードキーを取り出し、扉の脇にある機械に読み取らせた。

識別番号6329854 X国立バイオ研究所所長 ハロルド=スタイング。監視カメラの映像写真が合致。閣下と所長の入室を許可する』

 透き通って聞きやすい女性の声で機械が喋ると扉が開いた。

 扉が開きセクションVの光景が見えてくると閣下が感嘆な声を上げた。

「すばらしい。これは最高だ」

 保護服のせいで閣下言葉がくぐもって聞こえる。

 セクションVは今までの部屋と違って広大だった。

 高校にある体育館が十個以上余裕で入りそうなくらい広い。

 しかしその半分くらいの位置に分厚い硝子の仕切りがあって、部屋完全に区切っていた。

 そのため実質セクションVの大きさは全体半分程度しかない。

閣下、もう少し近くに寄ってご覧ください」

 スタイングに促されて閣下は硝子に近づく。

 硝子内にいたのは一頭のライオンだった。

 しかし様子がどこかおかしい。

 目が赤く血走り、毛はすべて抜け、表皮が破けて筋肉が剥き出しになっている。

 おまけに犬歯が絶滅したサーベルタイガーのように長く尖っている。硝子の前にある様々の機械群の中にある心拍数を示す機械数値はものすごく高くなっていた。

「このライオン次回世界大戦で使用する新生物兵器かね?」

 閣下興奮して声を荒げながら尋ねる。

「ええ、このライオンは敵国に二十頭ほど放つと大抵は降伏するでしょう。輸送手段現在検討中ですが……。ライオン人間のみに襲い掛かり即効で心臓を止めた後、素早く次の獲物に襲い掛かるのです。運よく助かってもライオンが媒介しているウィルスに感染して、ライオンと同じように凶暴化し人間に襲い掛かるのです。そのようにして芋蔓式に兵器を増やしていき、敵国を降伏に追い込むという算段でございます」

 スタイングは話しながら、機会をいじっている研究員に何か耳打ちする。

 研究員は軽く頷くと何か操作し始めた。

「しかし、それでは敵国に進入したわが国の兵士も殺されるのではないか?」

「その点はご安心を……ある種の電波を流す装置をわが軍の兵士体内に埋め込みます。その電波は微弱だとウィルス感染生物はその半径三メートルには近寄らなくなり、電波を最大にするとウィルス感染生物活動停止死滅します。万が一敵に機械を奪われても、所有者の心臓と連動しているので即座に使用不能になります。」

 スタイングは身振り手振りを交えながら説明を終えると、

閣下、狩の時間です。ご覧ください」

 そういって右手を硝子の方に掲げて指を小気味良くパチンと鳴らした。

 すると、ライオンのいる部屋天井から一頭羊が落ちてきた。

 ドスン

 ものすごい音が響く。

 ライオンはその音がスタイングたちの耳に届くはるか前に飛び掛って、のど笛に噛み付いていた。

 閣下の息を呑む音が聞こえる。

「なんと……あれは化け物か」

 スタイングはちらりと哀れな羊にチラリと目をやると、閣下の方に向き直った。

「ご満足頂けましたでしょうか?」

「う、うむ。わかった。満足じゃ。そろそろ戻るとしよう」

 閣下はそう呟くと、出口の方に歩き始める。

 その後をスタイングが追うようにして部屋を去ろうとした時――――。

「所長! 実験体が第四進化しそうです」

 先ほどの研究員が慌てたように叫んだ。

「何! 第四進化だと?」

 スタイングは慌てた研究員を突き飛ばし、機械を覗き込む。突き飛ばされた研究員は盛大に転んだ。

「な、何か問題でも起きたのかね?」

 閣下が声を震わせながら尋ねるが、誰も答えてくれない。

 硝子の中では、羊を食していたライオンにも変化が現れていた。

 まるで痛みに耐えかねるように、悶え始めると体表に剥き出しになっている筋肉パックリと割れて血が噴出す。

 それはまるでセミが羽化するのとよく似ていた。

「あ、ありえん。しかし……」

 スタイングはぶつぶつと何か呟きながら動こうとしない。

 先ほど転んだ研究員はガタガタと震えながら、立ち上がり、

「ぎゃああああああああああ」

 奇声を上げながらセクションVの扉に突進した。

 しかし、研究員がカードキーを読み取り機に当てても扉は開かない。

「しょ、所長……開きません」

 恐らくセクションTにいた研究員が危険を察知して第三セクション封鎖したのだろう。

 その言葉を聴いた閣下はぎょっとしながら後ずさる。

 飼育室内ライオンはすでに進化を終えていた。

 体長はスタイングの二倍くらいあり、鬣は硬くなりハリネズミのように尖っている。剥き出しの筋肉進化前より分厚くなっていた。その目は真っ赤になっており、硝子をじっと見つめていた。

「ス、タイング君。ど、どういうことかね……」

 閣下威厳を保とうとして仁王立ちで腕を組んでいるが、体と声は盛大に震えてむしろ滑稽に見える。

 スタイングはしばらく機械を見続けながらぶつぶつと呟くと、ようやく閣下質問に答えた。

非常にまずい状況です。計算した結果あのライオンが硝子に突進した場合一度目は五十パーセント、二度目は七十八パーセント、三度目は九十七パーセントの確率で破られます。破られた結果、一分以内生存率は三パーセントです。もしも生き延びた場合でも確実感染します」

 スタイングの声は震えてなく、淡々とした口調だった。

「だ……だが、電波を放出すれば死ぬのだろう?」

閣下の声に答えたのは先ほどから、扉を必死に叩いている研究員だった。

「あ、あのライオンはその電波を特定するための実験体なんだよお。だから電波はまだ特定できてねえんだよ」

 その言葉を聴いた瞬間閣下自制崩壊した。

「ぎゃあああああ。死にたくない。金はいくらでも払う。ここを開けてくれええええ」

 あまり速くないスピードで扉に突進する。

 その衝撃で哀れな研究員はまた突き飛ばされた。

 その様子をまるでサーカスでも見るような目つきでスタイングは眺める。

 そのとき――――。

セクションVでバイオハザード危険感知しました。館内の研究員は至急館外に脱出してください。三分後に高温処理開始します』

 先ほどのカード読み取り機で喋ってきた女性の声が館内全体に響く。

 その声は閣下の声をさらに大きくするだけだった。

「助けてくれええええええ」

 ものすごい音を立てて扉を叩く。

 しかし扉は一向に開かないが、飼育室内ライオンには変化があった。

 スタイングを見つめていた目を閣下の方に向けてうなりだしたのである。

 それに気づいたのはスタイングだけだった。

 スタイングはそっと硝子の前を離れると、部屋の隅に置かれている机に近づいた。

 机の上には所長と書かれたネームプレートが載っていて、書類が山となって詰まれている。

 その書類には目もくれずに、スタイングは保護服のポケットに手を入れ、小さな鍵を取り出し、机に備え付けられている引き出しの鍵穴に差し込んで回した。

 音を立てないように引き出しを開けると、中にはスーツケースより少し小さい鉄製のカバンが二つあった。それを二つとも手に取り机の上に置く。

 そしてふっと小さく息を吐いて開けた。

 一つ目のカバンには赤い血のような液体が入った小瓶が入っていて、固めのスポンジ隙間なく敷き詰められていた。

 二つ目のカバンにはコードやコンピューター基盤などがごちゃごちゃと入っており、カバンの中心には液晶とボタンが付いた機械があった。

 スタイングはおもむろに保護服のチャックに手を当て脱ぎ始める。

 パニックになっている研究員と閣下はスタイングの行動に全く気づかない。

 すべての保護服を脱ぐと遠くに投げ捨てる。

 スタイングは全身汗でびしょ濡れになっていた。

 しかし、本人はまったく気にせず一つ目のカバンから赤い小瓶を取り出すと二番めのカバンに僅かにできていた隙間に押し込んだ。

 そのとき、またスピーカーから女性の声が聞こえる。

高温処理まで六十、五十九、五十八……』

 その声に反応したかのように、ライオンがついに動き出した。

 体を全体的に低くして、牙を剥き出しながら硝子に突進する。

 ドン

 盛大に音が響き、硝子が粉々に砕け散る。

 どうやらスタイング予想よりはるかに強くなっているようだ。

 その音でようやくライオン自分たちを狙っていることに気づいた閣下研究員はライオンの方に顔を向けた。

 それが彼らの見た最後光景だった。

 ライオンは彼らが悲鳴をあげる前に、まるで弾丸のように飛び掛りのど笛に噛み付いた。

 だから、彼らは断末魔すらあげることが許されなかったのである。

 その光景をスタイングは不気味な笑みを浮かべながら眺めていた。

 左手には二番目のカバンを抱えて、右手にカバンから伸びているコードの先を握っていた。

 あっという間に食事を終えたライオンはスタイングの方に向き直る。

 そして、飛び掛るために姿勢を低くした。

 スタイングはぼんやりと実験体を眺めながら呟く。

「こんな場所研究成果を潰させるものか……」

 ライオンが飛び掛る。

 スタイングはライオンの足が地を離れた瞬間コードの先端についていたボタンを押した。

 小さな機械音が聞こえて、ライオンがスタイングに届く直前猛烈な光を放って小型水素爆弾は炸裂した。

 その爆弾セクションVはもちろんのこと、研究全体を吹き飛ばし、周りにあった森をもなぎ倒して多くの生命を奪った。

 更に水素爆弾の中にあったウィルスが空気中にばら撒かれて近くの町へと風に乗って流れていった。

 

 

       * *

 

 

 室内には私が本をめくる音と、炊飯からでる蒸気の音しか聞こえない。

 私が今読んでいる本は『初心でも手軽にできる暗殺術』と言う本だ。結構面白い。今度誰かにやってみようと思う。

平和だ。平和すぎて怖いくらいだ」

 ぼそりと呟いてみる。

 返答してくれる人はいない。

 飯、飯わめく人も、いびきがうるさい人もいない。

 本当平和すぎる。

 嵐の前の静けさでないといいのだが……。

 本のページをめくり、お茶を飲もうとカップに手を伸ばす。

「ありゃ? ない」

 本に熱中していたせいかお茶を飲み干したことにすら気づかなかった。

 お代わりを注ごうとポットに手を伸ばそうとした時――――。

 ピクリ。

 自分のピンク色の小さな耳が動くのを感じた。

「馬の嘶きが聞こえる」

 まだ近くではないが、そろそろ食事準備をしておいた方が良い頃合だ。

 本にしおりを挟み、机の脇にある大きな桐の本棚の戻し、カップとポットはそのままにしてキッチンへと急ぐ。

 エゾオコジョにとって苦労するのは高い所に物がある場合だ。冷蔵一番上の棚など良い例である。

 冷蔵の横にある、私より断然長い棒を使って冷蔵を開けると、僅かな窪みなどを見つけて起用に冷蔵を這い登る。

 中には料理好きの私が買い揃えた自慢調味料素材が綺麗に整頓されている。

 もちろん面倒くさがり屋のリースがするはずもなく、すべて私が苦労してやったものだ。

 私は様々な素材の中から昨日作ったばかりのハンバーグが入った大皿を取って、頭に載せるとそのまま飛び降りる。

 ここにきた初めの頃はこれをやると大抵はひっくり返してしまったものだがだいぶ慣れたものである。

 エゾオコジョも成長するのだ。

 軽やかに着地すると、先ほどの棒で冷蔵を閉めて変わりに電子レンジを開ける。

 後は冷蔵のときと同じような要領でハンバーグを中に入れ、尻尾がレンジに挟まっていないのを確認してボタンを押す。

 炊飯と同じような音がして電子レンジが稼動し始める。

本当はご飯にした方が良かったんだろうけど、お粥でもいいよね」

 独り言を呟く。

 それにしてもリースは丈夫なのだろうか、まあ後で薬でも貰っておこう。

 そんなことをぼんやりと考えているうちに――――。

 ピロリロリン

 電子レンジと炊飯機械音がまるでハモるように聞こえた。

「はいはい。今取り出すからハモるなよ」

 電子レンジと炊飯当然のことながら返事を返してくれなかった。

 

 

 ようやくすべての料理を机の上に並べ終えた時、まるでタイミングを計ったかのように玄関来客用ベルが鳴る。

 私は机の上から飛び降りると、短い足を最大に動かして玄関の前へと走った。

「いらっしゃい。フィンさん」

「おう! テン。久しぶり」

扉をくぐってきたのはフィンさんだった。

 フィンさんというのは世界馬車で駆け回る行商人だ。本名はフィスデルスというのだが呼びにくいと言われることが多いらしくフィンというニックネームをつけたらしい。麦藁帽子に黒いサングラス、柄の派手なアロハシャツに半ズボン。おまけにビーチサンダルといった格好で年がら年中いるためにすぐにお客に顔を覚えてもらえるそうだ。うわさでは医師免許を持っているらしい。

「テン、リースはどこや? 今日はお客はんが一緒に来てるで」

「リースなら、風邪を引いてソファーで休んでます」

「何やて? こないな春日和に風邪引いたのか。しゃあないな、わいが診てやるで」

 フィンさんは一度店を出ると、自分馬車まで行き黒いカバンを手に持って戻ってきた。

 再び来客用のベルが鳴る。

 私がそのカバンを不思議そうに見ていると、

「診療カバンや、中には医療用具がたくはん入ってんねん。針が太い注射器もやで」

 フィンさんがにやりと笑う。

 私は絶対病気にならないと心に誓った。

「わいはリースを診察して来るから、お客はんの相手頼むで」

「え? あ、はい」

 フィンさんに言われなければ気づかなかっただろう。

 玄関のドアの横に申し訳なさそうな顔をした父娘が立っていたのだ。

 父親の方は本来ならば真っ白であろうカッターシャツに青いジーパンといった普通服装なのだろう。しかし今はカッターシャツの半分近くが真っ赤に染まっていた。とても柄には見えないので恐らく血液だろう。何かの事件に巻き込まれたとしか思えない。

 そんな父親の影に隠れるようにして私の方を吸い込まれそうな黒い瞳でじっと見ている少女も、黄緑色のワンピース半分近くを真っ赤に染めていた。

「ああ、申し訳ございません。店長のリース=ウィッチは風邪をこじらしておりまして、私テンがご商談に臨ませていただきます」

 私はぼんやりと立っている父娘に頭を下げた。

 すると、夢から覚めたように父親の方が喋りかけてきた。

「――――ど、どうも。フミヤと申します。隣にいるのが……」

「――――コトミ……」

 コトミと名乗った少女の黒い瞳には生気がなく、まるで死人のようだ。

 まるで一週間ほど餌を与えなかったリースとよく似ている。

「とにかく椅子にお座りください。お腹が空いているようでしたら、机の上にハンバーグ定食が置いてありますので食べてください」

 私が先導して机の前に案内する。

 机の上にはハンバーグがおいしそうに湯気を立てていた。

 しかし彼らはそのハンバーグに目もくれず、椅子に座る。

 私的にはうれしそうな顔をして食べてくれるのかと思ったので、ちょっと意外だった。

 でも、お茶くらいは飲んでくれるかなと思い、例の桜茶を彼らの前に置いてあるカップに注ぐ。

 フミヤと名乗った男性は頭を下げてきたが、手を伸ばそうとしない。

 私はこれ以上無理に薦める必要はないと思い、そのままフミヤさんの前に座った。

「それで……どのようなご用件でしょうか?」

 恐る恐ると言った感じで尋ねてみる。

 フミヤさんは黙ったまま下を向いていた。私の言葉で我に返ったように前を向き血の気が失せた顔でぼそぼそと話し始めた。

「実は、妻を元に戻して欲しいんです」

「奥さんをですか? 元に戻すって……精神崩壊とかしたんですか?」

 フミヤさんは力なく首を振る。

 すると、隣から今まで黙っていたコトミちゃんが父親の代わりに答えてくれた。

「ママね、怪物になっちゃったの……」

怪物?」

 私は驚いて身を前に乗り出した。

「そうやで、テン。ニュース見てへんのか? 何しろ五日前にとある研究所が爆発して内部で保管されとったウィルスが空気中に漏れ出したらしいんや。そのウィルスに感染した生物人間を襲う殺人生物になるらしいんやと」

 いつの間にかリースを叩き起こして机まで引きずってきたフィンさんが、心ここに在らず状態のフミヤ父娘の代わりに事の詳細をすべて話してくれた。

 ふと、リースを見ると相変わらず熱がありそうだったが注射を打たれたおかげか幾分元気そうな顔になっている。

 まあこの調子なら明日くらいには元気になっているだろう。

「へえ。怪物か……ということは、フミヤさんの奥さんは怪物になってしまわれたと言うわけですね?」

 私は小さな手を組みながら、納得した。

 しかし、いままで来た客の中に生き返らせてくれという注文はあったが怪物化した人間を元に戻せという注文はない。

 でも、私はリースやフィンさんのようにすべての商品を網羅しているわけではないから、もしかしたら戻せる魔法や薬があるかもしれない。

 仕方ないので、困ったような表情を浮かべてリースを見る――見て呆れた。

 なんとリースはフミヤさんの前に置かれていたハンバーグを自分の前に引っ張っていき、箸を突き刺して食べているのである。

 フィンさんも呆れたように眺めながら、「いつものことや」と呟き、首を振っている。

 しかしこのまま放って置いても、私の視線に気づかずお客様に迷惑がかかるのでプライドを捨てて声を発した。

「リース。怪物化した人間を元に戻す薬なんてあるの?」

 リースは青白い口にハンバーグを押し込み、笑顔で咀嚼している。

 その顔が盛大にウザイ。

 ハンバーグを飲み込み、お茶を飲むまで私とフィンさんはイライラしながら見ていた。

「はあ。食った食った。でも味付けが少し薄かったな、ソースをもっとかけた方がいいんじゃない? テン」

 そんなリースの言葉が私の耳に届いた時、私の頭の中で何かが切れる音が聞こえた。

 机の上に無言で立ち上がり少し後ろに下がる。

 フィンさんは何をするのか分からない様子で、

「テン。何をするんや?」

 と呟いた。

 私はニヤリと笑うと、そのまま走り始めて自分の目の前にあったハンバーグのお皿の手前ジャンプした。

 もちろん途中に並んでる料理に落ちないように計算してある。

 ふわりと体が浮いてハンバーグの上空を飛び越える。

 腹の底から電気のようなものが体中に流れる。

 私は羽がないので空を飛ぶことは不可だが、飛べる動物は常にこういう感覚なのかもしれない。

 そのまま右足をリースの額に向けて照準を定める。

 リースは熱のためか私に気づいても、とっさの判断ができなかったようだ。

 私の右足はダイレクトにリースの額に打ち当たる。

「ぐはッ」

 うめき声を上げて、床に派手に倒れる。

 私の体重じゃここまで派手に倒れるわけない。

 本当に見せ方はうまいやつである。

 リースはしばらくの間床で伸びたふりをしていたが、誰も構ってくれないことに気づくと罰の悪そうな顔をして起き上がった。

「ごめん」

 寝癖がついた髪に手を当てながら呟く。

 リースは軽く首を振った後、先ほどの私の質問に答えた。

怪物化した人間を元に戻すね……。あるよ。薬がね」

「ほ、本当ですか?」

 ボーっと天井一点を見つめていたフミヤさんがリースの言葉で我に返ったように叫んだ。

 あまりの声の大きさに少しびっくりしてしまった。

「ええ。なかなか手に入らない貴重な薬ですけどね。この森の奥深くに自生する千年に一度しか咲かない花の蜜を集めて、他の薬草といっしょに煮詰めた後、また更に二十年ほど暗い倉庫の中で寝かせるんです。作るのに相当苦労した薬品です」

 リースは自慢気に作業工程を述べていて私は少しリースを見直したのだが、

「作ったのは全部わいやけどな」

 ボソリと呟いたフィンさんの言葉で、少しでもそう思った自分馬鹿だったと悔やんだ。

 リースは心地が悪そうな顔をしてフィンさんの顔を少し睨むと、レジが置いてあるカウンターの方に行く。しばらくして、深い深海イメージするような青い小瓶を右手に持って戻ってきた。

「これが怪物化した人間を元に戻す薬。通称人類還元薬とも呼ばれています。まあ、あまりにも産出量が低いので伝説の秘薬とも呼ばれていますが……」

 小瓶を机の上に置く。

 丁度太陽の光が室内に差し込み、小瓶を照らし出す。

 小瓶の後ろにはまるで海が本当にあるかのような青が広がっていた。

 ふと、コトミちゃんが青い小瓶をじっと見つめていることに気づいた。

 女性は光物に目がないと聞いたことがあるのだが、コトミちゃんも小さいながら女なんだなあと思った。

「それで、この薬をお買いになりますか? 効果絶対です。保障します。ただ、とても貴重な品ですのでお値段の方はとても高価になりますが……」

 リースはフミヤさんを試すような目で見る。

 精算前のリースはいつもお客を試すような目で見る。

 お金というものは人間にとってそこまで大事なのだろうか……。

 私はこの前来た客のことを思い出した。

 その客は成金と呼ばれる客だった。バブルとかいうお金が世の中に溢れている時代が終わって急に路頭に迷った客だった。

 その客はお金が欲しいと言った。

 リースが代価を要求すると、銃を発砲して店をめちゃめちゃに荒らした。

 仕方がなかったのでリースは魔法を使ってお客の息の根を止めた。

 あそこまでしてお金が欲しいのか人間でない私には到底理解できなかった。

「あの……おいくらでしょうか?」

 ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた後フミヤさんは恐る恐るといった感じで聞いた。

単位は円でよろしいですか?」

「ええ」

「三億円になります」

「さ、サンオク?」

 フミヤさんは目を丸くして驚いていた。

 確かに凡人には三億は高いだろうと私は思う。リースがこの時のように高い数字を提示してきた場合商品を売りたくない時か商品がよほど高価場合だ。

 今回のケースは後者だと思う。

 フミヤさんは目を開いたまましばらく固まっていた。

 その間喋る者はいない。

 しばらく経って、フミヤさんは青い小瓶を見つめているコトミちゃんに言った。

「コトミ。ママのことはもうあきらめよう。パパ、頑張ったけど駄目みたいなんだ」

「嫌――――。いやだよお。ママ。ママ。ママ」

 青い小瓶を見つめていた黒い瞳から大粒の涙が頬を伝う。

「ごめんね。ごめんね」

 フミヤさんは泣き止ませようと必死だった。

 コトミちゃんを抱き上げてあやす。

 それでも泣き止む気配一向にない。

 そんな様子真顔で見つめていたリースが口を開いた。

「フミヤさん。ひとつだけ、今この場で薬をお渡しする方法があります」

 リースの言葉がコトミちゃんの耳に届いたのか泣き声がやむ。

「ほんと?」

 コトミちゃんが泣いて腫れぼったい眼をリースに向けて言った。

「はい、コトミさんを担保としてフィンに預けます。フミヤさんは薬を持って奥様の救出に行かれてください。戻ってきた場合にはコトミさんをお返しして、期限なし利息なしで三億円きちんと払ってくだされば結構です。尚、フミヤさんが逃げた場合や死んだ場合はコトミさんを奴隷市場に売り飛ばします。僕は無料奉仕商売をしている訳ではありません。これが妥協点だと思いますが、いかがでしょう?」

 フミヤさんは考えるまでもなく言った。

「やります! 娘のために必ず戻ってきます。この身を犠牲にしてでも妻だけは絶対に救います。どちらかが必ず戻ってきます」

「ママ助かるの?」

 コトミちゃんが不安そうな顔つきでフミヤさんを見る。

「うん。助かる。パパが必ず助けてくるから大人しく待てるよな?」

「うん、待つ」

 コトミちゃんは笑っていた。ひまわりの様に笑っていた。

 この笑顔を奴隷市場で売り飛ばすと考えたリースに多少嫌悪感を抱いたが、フミヤさんならこの笑顔を奴隷市場に送らないと思う。そんな気がした。

 リースは相変わらず真顔のまま手を差し出す。

契約成立ですね」

 フミヤさんも真剣な顔つきでその手を握った。

 

 

 やはりお腹が空いていたのだろう。コトミちゃんとフミヤさんはハンバーグをすべて平らげてくれた。(私の分も)

 私は食べれなかったが、笑顔で食べてる二人を見ているとそんなことどうでもいい気分になってしまった。

 父娘が食事が終えて、フミヤさんが食事の礼を私に言っている時だった。

 フミヤさんの後ろでリースがコトミちゃんの耳元に何か短くささやいているのが見えた。

あまりに一瞬の事だったのでもしかしたら見間違いかもしれない。

 私はフミヤさんの礼に謙遜した態度で返す。

「いえいえ、来店してくださったお客様へのサービスです」

 そう言って頭を下げる。

 頭を上げたときにはリースの姿はコトミちゃんの傍にはなく、先ほど寝ていたソファーの上にあった。

 つくづくあきれるやつである。

出発するで、荷物持って馬車まで来てや」

 外で出発する準備をしていたフィンさんの声が外から聞こえる。

 フミヤさんは寝ているリースに頭を下げると、私の方を向き直り、

「お世話になりました。ほらコトミ」

 と言った。

 フミヤさんに抱っこされたコトミちゃんはなんだかとても眠そうだったがか細い声で、

バイバイ

 と言ってくれた。

「頑張ってください」と応援言葉を述べる。

 フミヤさんは頭を深く下げると、来客ベルを響かせながら店を出て行った。

 私はその後姿に大きな声で、

「ありがとうございました」

 と言った。

 しばらくして頭を上げる。

「さて、お皿でも洗おう」

お皿を洗おうとして、机の傍に向かおうとすると、

「?」

 ふと開けた記憶のない窓が開いていた。

「あれ? リースかな? リース!」

「…………」

 返事はない。

 一応ソファーの傍に行ってみるが……。

「あれ? いない」

 探そうとして、玄関に走っていく。

 しかし、扉に手をかける前に。

「ま、どうせすぐ戻ってくるでしょ。それより洗い物、洗い物っと」

 さほど気にせずに、再び机の方に走った。

 

 

       * *

 

 

 フミヤは自分のいる町に戻ってきた。

 目を閉じて、先ほどの馬車での光景を思い出す。

 

 

「フミヤはん。コトミはんには魔法がかけられていまんねんわ。あんはんが戻ってきて頬にキスせんとお嬢はんは目覚めまへん。万が一逃げたり死んだ場合でも一応目覚めまっけど、あんはん方に関する記憶はすべて消去されまんねんよるさかいに」

 フィンがぐっすりと眠ったコトミを見ながら言った。

「はい、絶対に帰ります」

 フミヤは真剣な顔つきで言った。

「それと、これはおまけや」

 フィンはいつの間にか右手に握られていた拳銃をフミヤに差し出す。

「きいつけてや」

 フィンはそう言ったきり何も喋らなくなった。

 

 

 目を開けて頭の中にある娘の寝顔を消す。

 今は戦いのときだ。

 フミヤは銃を構えて辺りを見回した。

 昨日までは相当人がいた通りだが、今は生きている人間はいない。

 在るのは食い散らかされた肉片や骨。建物が壊された瓦礫

 フミヤはそんな周りの者に目もくれずに妻であるサトミの姿を探した。

 気づかれないように足音を立てずに歩く。

 ふと、大きな音がした。

 音の方向に銃を向けると、そこには……。

「サトミ!」

 身長は二倍近くあり、表皮が剥けて筋肉が剥き出しになっていたが、それは紛れもなくフミヤの妻の姿であった。

 しかしこのままじっとしてればいいものを、フミヤは致命的なミスを犯した。

 妻の名を大声で叫んだ後、自らサトミの前に飛び出したのである。

 その音を怪物化したサトミが聞き逃すはずもなかった。

 自分の方に笑顔でうれし涙を浮かべながら駆けてくるフミヤをサトミは、非常に尖った爪で一瞬にして心臓を刺し貫き、まるでステーキを食べるかのように口に運んだのである。

 その表情は厭らしく満足そうな笑みであった。

 しかし、次の瞬間その表情苦痛に歪む。

フミヤのポケットに入っていた薬が効いてきたのだった。

 そして、口というより穴に近い口を開けると胃の中の物を吐き出す。

 ドロドロとした胃液一緒にまだ消化していなかったフミヤの死体地面に転がり落ちる。

 フミヤの死体心臓部分に大穴が開いていて、皮膚胃液で溶け始めていた。目は光を失いぼんやりと空を向いている。とてもじゃないが見るに耐えない。

 一方サトミはまるでビデオが巻き戻っていくように、人間の姿を取り戻しつつあった。

 牙のような歯は縮まり、筋肉表皮に包まれてゆく、血走った目は元の綺麗な黒い瞳になってゆく。

 数分の時が過ぎ、怪物のいた場所には若く髪が腰まである全裸の女性がぼんやりとした様子で立っていた。

 その顔つきはコトミとよく似ている。

 サトミは視線を下に向けて、自分の下の転がった無残な死体に目をやる。

 サトミは自分怪物になっていたときの記憶鮮明に覚えていた。

 しかし、ウィルスに犯された脳は夫を食べ物と見なし、本人の意思を無視してしまう。

 サトミはフミヤをじっと見つめて呟いた。

「ごめんね。ごめんね」

 自然と涙が頬を濡らす。

 そして、フミヤの死体に口付けをする。

 ふと、フミヤが何か握り締めていることに気づく。

 それはフィンから渡された拳銃だった。

 サトミはそれを握り締めると、抜け目なく辺りに目をやりながら後ろにあった自分の家の残骸に入る。

 しばらくして、服を着たサトミが出てきた。

 全身活動しやすい黒いジャージに、長い髪は赤いリボンで結っている。

 抜け目なく周囲を見渡す。

 サトミはもう一度フミヤを見て、目元を押さえると静かに涙を流す。

 サトミは悔しかった。

 フミヤのために声を上げて泣くことが許されないことが。

 いつも優しくしてくれた、泣いているときは慰めてくれた、そんな彼を殺してしまったのは自分である。

 そんな自分も悔しく、とてもとても憎かった。

 一瞬サトミは右手に握り締められた銃で自分のこめかみを打ち抜こうと考えたが、フミヤの生き形見であるコトミのことを考えるとそんなことできなかった。

 銃を構えたまま歩き出す。

 この町は通称迷いの森と呼ばれる大きな森と隣接している。

 そこまで逃げ込めれば、怪物を撒けるかもしれない。

 サトミは瓦礫に躓かないように気をつけながら走り出した。

 そのとき、先ほどまでサトミがいた位置怪物が飛び掛る。

「ッ!」

 幸い走り出すのが速かったため、間一髪で外れる。

 サトミは一瞬にして体をひねると、銃口怪物眉間に向けて引き金を引く。

 パン。

 あっけないほど小さな音が響き、狙い通りに怪物眉間に当たる。

 しかし、怪物一瞬動きを止めただけで再びサトミに狙いを定めると音もなく飛び掛った。

 怪物日本刀のように長い爪が、太陽の光を受けて一瞬光るとサトミの無防備な腹に突き刺さる。

「ぐッ!」

 サトミは小さな口を開き、大量の血を地面に撒き散らした。

 怪物は素早く爪を引き抜くと今度は醜い異臭のする口を開けた。

 口の中には腐りかけた人間の腐肉が鋭い歯にこびりついていた。

「い――――」

 恐怖でサトミは悲鳴をあげることができない。

 もう駄目だと諦めて、抵抗するのを止めた瞬間

 怪物が急に悶え始めた。

 爪が皮膚に食い込むのにも構わず、耳を押さえてのた打ち回り始めた。

「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃああああああぎゃ」

 意味のない言葉周囲に撒き散らしながら、怪物は暴れまくっている。

 しかし、それもしばらく経つとだんだんと小さくなり……やがて消えた。

 声を出さなくなった怪物は、動きも止めてその場にまるで建物が倒壊するかのようなものすごい音をたてて倒れた。

 サトミはその様子を擦れゆく景色の中で見ていた。

 先ほど刺されたお腹に手をやると、ウィンナーのような腸がお腹からはみ出して地面に垂れ下がっていた。

丈夫でしたか? って……丈夫じゃないか」

 まだ若い少年の声が辺りに響く。

 サトミは軽く顔を上げた。

 しかし、血液がほとんど体外に出てしまったため目がよく見えない。

「だ…………れ」

 老婆のように擦れた声がサトミの喉から絞り出る。

 少年は倒れているサトミのそばまで来ると、しゃがみこんでサトミを見ていた。

「喋らないほうがいいですよ。あなたの寿命が縮まるだけです」

 サトミには少年の姿が見えなかったが、少なくとも自分味方であることはわかった。

 少年一方に話を続ける。

「急いだんですが、どうやら間に合わなかったみたいですね。本当にすみません。僕は魔法使いですけど生きかえすって事はできないんですよ。僕は神様じゃないんでね」

「あ……の」

「はい?」

「む、す」

 サトミはすでに目の前が真っ暗になって何も見えていなかった。

 耳はまだ機能しているので少年言葉はちゃんと聞こえていた。

「ああ、娘か。コトミちゃんは僕たちが責任を持って育てます。僕は残酷な人間ではないのでね」

 サトミは自分がもうすぐ死ぬということに気づいていた。

 自分で娘を立派にしてやれないのは悔しいが、目の前にいる少年ならきっとコトミを幸せにできる。サトミは静かに心の中でそう思った。

 だから、せめて自分存在したことを娘に覚えていて欲しいと、サトミは最後の力を振り絞った。

「赤……リボ…コトミに」

 それだけ無理やり喉から搾り出すと、サトミはもう何も考えられなくなった。

 そして辺りの音も、心臓の音もすべてサトミには聞こえなくなった。

 その様子を見ていた少年、リースは静かに目を閉じて手を合わせる。

 しばらくの間そのままの状態で佇んでいた。

 そして、サトミの長い髪から優しく赤いリボンを解く。

「お客様、ご注文承りました。代価はサービスです」

 そう呟いてスッと立ち上がり、赤いリボンをポケットにしまうと、サトミの死体に深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

 

 

 * * *

 

 

 かぽっ……かぽっ……。

 馬の蹄が土を踏みしめる音が森に響く。

 しかし、その音も町が近づくにつれて騒音に負け聞こえなくなった。

 フミヤが死んで一週間経過している。

 フィンは荷台で寝ているコトミという少女奴隷として町で売り飛ばそうと、わざわざ一週間もかけて目の前に広がる町に来ていた。

 フィンの目の前に広がる町は、ライトベリューサという名の町だ。

 国際的には正式に認められたわけではないが、一応国である。

どの国にも属さない独立した地域だが、一応法律があり、町を統治している町長もいる。主な産業合法奴隷売買。売人の多くはこの国の国籍であり奴隷の出所は国家機密だ。

ちなみにフィンはこの国の国籍ではない。

町は場所特定されぬように常に移動している。

フィンが簡単に組み立てられた検問所の前に着いた時、銃を構えた番兵に止められた。

「どうも、こんにちは」

 フィンは麦藁帽子を軽く上げて番兵に挨拶する。

 番兵はその顔を見た瞬間、はっとした顔になり慌てて敬礼した。

「フィスデルス様! 失礼しました」

 そう大きな声で言うと、急いで門の閂をはずして開けた。

 本来ならあるはずの荷物検査はない。

 これだけでフィンがどれほど有名行商人か分かるだろう。

 油を満足に注していないのか、耳障りな音を響かせながら門が開く。

 フィンは番兵に軽く会釈すると馬に鞭を振るい歩を進めた。

 馬車完全に町に入ると、再び嫌な音を響かせながら門が閉まる。

 その音で目を覚ましたのか、コトミが荷台から目をこすりながら顔だけ出す。

「もう着いたの?」

 そんなかわいらしい声に対しフィンはぶっきらぼうに答えた。

「もうちょっとや」

 この一週間彼らの間にはこの会話しかされていない。

 奴隷となる少女を気にかける必要もないのだろう。

 コトミはそのまま頭を引っ込めて、まるで亀が首を引っ込めるように荷台に帰っていった。

 フィンはそれを確認するとまた前を向いた。

 辺りはすぐさま移動できるように、布と柱でできた簡単な家しかない。

 しかし、しばらくするとそのような家が少なくなってきた。

 変わりに、明らかに奴隷と分かる人を乗せたトラックが目立ってきた。

 フィンは軽く目をやっただけで特に気にした様子はない。

 ピシリと小気味良い音を立ててフィンは鞭を振るった。

 馬は痛いのか独特の雄たけびを上げて加速する。

 しばらく馬を走らせると、一際大きい建物が見えてきた。

 作りは他の建物と同じだが、大きさは大サーカスのテント並みに大きい。森の色に同化しやすい迷彩柄のテントだ。

 その前に、学校運動などで使われる簡易テントがポツリと置かれていた。

 テントの中には机と椅子が置かれていて、そこに銃を持った男が座っている。

 男はフィンより少し若くて、髪は茶髪で短く刈り込んでいる軍人風のハンサムな男だった。

 男は馬車の音に気づくと笑顔で立ち上がりフィンに手を振った。

「おお! フィンじゃねえか」

 フィンも今までの顔が嘘のように笑顔になり手を振った。

「バンクス。久しぶりやな。何年ぶり?」

 簡易テントの前で手綱を引き馬車を止めて言った。

「覚えてないくらい前だぜ! ほんとぜんぜん会いにこねえんだからよ」

 バンクスと呼ばれた男は笑いながら、フィンの頭を小突く。

 フィンも苦笑しながら、

「こないな犯罪組織の塊みたいな町しょっちゅう来れへんよ」

 と小突く。

「なにい? よく言うな。お前みたいな不法入国者に言われたくないぜ」

 そう言って、バンクスとフィンは大笑いする。

 しばらく、他愛もない雑談時間を過ごした後ようやくバンクスが本題に入った。

「で、今日は何の用で来たのか? 話しをするためにわざわざ来たわけじゃねえだろ?」

 バンクスはニヤリと笑いながら言った。

「うん、それなんやけど――――」

 フィンが今日来た目的を告げようとした時、馬車の荷台からコトミがかわいらしい顔をくしゃくしゃにさせて、

「パパ! おしっこ」

 と今にも泣きそうな顔をして言った。

 バンクスは荷台から顔を出した女の子に驚き、急にニヤニヤした顔をフィンに向けた。

「なんだ、フィンに娘がいたとはおっどろきー! 奥さんはどうしたの?」

 しかし、フィンはバンクスを無視してコトミに近寄った。

「お前、今なんて言ったんや?」

 コトミはくしゃくしゃな顔を更にくしゃくしゃにさせて、

「おしっこ! 漏れそうなの。パパ」

 と周りがびっくりするくらい大きな声で怒鳴った。

 フィンは慌てたようにコトミを抱き上げて、バンクスに聞く。

「トイレどこや?」

「え、ああ。案内する」

 バンクスは中に入ると、入り口にいた男と何か話しフィンを中へ導いた。

 女性がいないので仕方なく男子トイレに入る。

 ぶじ、中に入るとコトミを降ろす。

 コトミはよろめきながらも個室に入っていった。

 それを見届けるとフィンは溜息をつく。

「リースの仕業やな。ホンマにお節介なやつや」

 しばらくすると、コトミが笑顔で出てきた。

 水道で手を洗い、フィンの前で両腕を広げる。

「パパ。抱っこ」

 無垢な笑顔を浮かべたコトミをフィンはしばらく見つめた後、おもむろにコトミを抱き上げる。

 そして、トイレを出た。

 トイレのすぐ傍にはバンクスが壁に寄りかかって待っていた。

「お! 終わったか? んで、何の用だったんだ?」

 フィンはすこし思案気な顔つきになり、しばらくして言った。

「じ、実はなコトミに友達を作ってやりたいんや、ほら、バンクスの息子は同じくらいの年頃やったやろう?」

 バンクスは真顔から、一瞬ポカンとした顔になり、そして腹を抱えて笑い出した。

「わはははは! 本当にフィンは娘に溺愛だな。俺も娘が良かったぜ。あの馬鹿息子本当に可愛げがないからな。良かったら、ウチの馬鹿息子と遊んでやってくれ」

 バンクスは笑いすぎで目に涙を浮かべながら言った。

「ありがとうわ。今日は泊まらせてもろてもええか? 夜は一緒に飲もうや」

「ああ、いいぜ。今夜徹夜で語り合おう」

 そう言って二人で握手をする。

 二人ともとてもうれしそうに笑っていた。

 フィンは握手をした後、バンクスの仕事が終わるまで簡易テントの前にある。ベンチでお茶を飲みながら一休みすることにした。

 コトミは熱いお茶に息を吹きかけながら、冷まして飲んでいる。

 フィンはその横顔を見ながら、

「コトミって何歳や?」 

 と尋ねる。

 コトミは、お茶の入ったカップをお盆に戻すと笑いながら言った。

「忘れちゃったの? えーっとね。コトミはね」

 両手を広げて指を折り曲げるが、思い出せないようだ。

「じゃあ、わいが勝手に決めるで。五歳でどうや?」

「五つ? うん。じゃあコトミは五つなんだね」

「そうや、コトミは五歳の女の子でわいの娘や」

「そうだね、パパ」

 真っ白な歯を見せて笑う。

 フィンは満足げに笑うと、

「もう一回言ってや、パパって」

 珍しく顔を赤くしながら言った。

「なんで?」

「いいやん。ほら」

「むう――――パパ」

「もう一回!」

「パパ!」

 かわいらしいコトミの声とフィンのうれしそうな声は、ニヤニヤしたバンクスが来るまで続いた。

 

 

  エンディング

 

 

××××年 四月 三日 (水) 今日日記担当 テン

 

 

「いやあ、それにしても驚いたよ。僕の快気祝い兼お花見パーティーをやってくれるなんてさ」

 リースは右手焼酎のビンを握り締めている。

「リースはホンマにお節介やな」

 フィンは左手にワインを握り締めている。

 私はお酒臭い二人から離れたところでコトミちゃんと遊んでいた。

 私の前には小さなサッカーボールが置かれている。

 小さなとは言っても私の身長より少し小さいだけなのだが……。

 私はそのボールを蹴るというより体全身タックルする。

 しかしあまり勢いが付かず、黒い瞳を持ち、麦藁帽子少女の前へと貧弱に転がる。

「テン君駄目だよ。そんなんじゃプロになれないよ」

 コトミちゃんが頬を膨らませて言う。

 彼女とは今日で会うのが二度目なのだが、相当懐かれてしまった。

 始めは私の声がリースの腹話術だと言い張り、リースにまとわり付いていたのだが、やがて飽きたのだろう。今度は私の犬歯を見て銃刀法違反だと言い。逮捕するーといいながら疲れ果てるまで追いかけっこをした。その後少し休憩の後、今度は私をプロのサッカー選手にすると言って、この通りサッカーをしているのである。

 疲れないと言えば嘘になるが、楽しいからさほど気にならない。

 それにコトミちゃんが楽しそうに笑っているのを見ると疲れなんて吹き飛んでしまうのだから不思議である。

 コトミちゃんは自分の方に転がってきたボールを右手ワンピースの裾を押さえながら、私の方に蹴り返してきた。

 やっぱり女の子なんだなあ、リースとぜんぜんちがうやと思って見ていると、ボールが私にぶち当たった。本人は弱く蹴ったつもりなのだろうが私には少し強すぎたようだ。

 強い衝撃が体に走って、私は数メートルほど後ろに吹き飛んだ。

 私自身これくらいのことは慣れっこなので平気だったが、コトミちゃんは罪悪を感じてしまったらしい。

「ご、ごめんね。怪我ない? ごめんね」

 コトミちゃんは目に涙を浮かべながら、私のほうに駆けて来る。

 そして、私を抱えてひたすら謝ってきた。

 私はそんな彼女の顔を見ながら、昨日のリースとの会話を思い出す。

 

 

       * *

 

 

「少し前に小さい子供を連れたお客が来たよね?」

 夕食の席でのことだった。

 いつもはくだらない話しかしないリースだが、この日はにこやかに笑いながら話しかけてきた。

「うん、たしかフミヤさんとコトミちゃんって名前だったよね?」

 私はクシに刺さった山女にかぶりつきながら言った。

「そのコトミちゃんって女の子。フィンが引き取って育てることにしたみたいだよ」

 リースが豆腐を箸で切りながら何気なく言ったので、私は驚いて山女を皿の上に落としてしまった。

本当に? そしたらフミヤさんと奥さんは死んじゃったの?」

「僕も詳しい話は聞いてないけどどうやらそうみたい」

「そうなんだ……」

 私は少し悲しい気持ちになった。

 お皿の上に落ちた山女を取らずに、下を向く。

「コトミちゃんも奴隷として売り飛ばす予定だったんだけどね。どうもフィンが自分で育てたいって言い出してね」

 リースは相変わらず笑顔で豆腐を口に運ぶ。

「でもさリース。フィンさんは自分の命より金を大事にする人だよ。他人のコトミちゃんを引き取るなんて……」

「さあてね。僕には理解できないよ」

 そう言って今度は私の皿の山女に手を伸ばす。

 私はその手をピシリと叩くと、しぶしぶといった感じで手を引っ込める。

 私はリースを睨もうと、顔を上げる。するとひとつの仮説を思いついた。

「ねえリース。もしかしたらリースが魔法をかけたんじゃない? あまりにも不憫なコトミちゃんを救うために……」

 すると、リースは黙ったまま味噌を啜った。

 私はリースが返答してくれるものと思い、待っていたのだが結局この日、リースが喋ることはなかった。

 

 

       * *

 

 

 記憶を失くし、親を亡くし、接点がない大人をパパと呼ぶ。

 幸せそうな少女にそんな過去を負わせることになってしまったウィルスの製作者がとても憎い。

 できればフミヤさんと一緒に暮らしたほうがコトミちゃんにとって幸せだったのだろう。

 私は奥さんをあきらめて二人で仲良く暮らすことを薦めるべきだったのだろうか。

 しかし、それはもう叶わぬ夢。

 コトミちゃんはこれから何年もフィンさんと過ごし一杯愛情を貰って育っていくのだろう。それもまた幸せなのだろうか。

 私にはよく分からなかった。

 どちらの選択彼女にとって最善だったのか分からなかった。

 分からないけど、今この瞬間コトミちゃんが笑顔でいた方が彼女にとって幸せなのだろうと思うとこのまま泣かせておくのはとても不憫に思えた。

丈夫ですよ。コトミちゃん。これくらいのことは日常茶飯事なので慣れているんです」

「ほ、ほんとに? テン君平気なの?」

「ぜんぜん丈夫です」

 私はコトミちゃんの手から降りるとピョンピョンと跳ねる。

「良かったあ」

 コトミちゃんは私の大好きなひまわりのような笑顔で笑ってくれた。

「じゃあ、パパとリースさんのところまで競争ね」

「はい、私も負けませんよ」

「よーいドン!」

 コトミちゃんの元気な声が聞こえて、私は走り出した。

 勝てるわけないのだが、全力で走った。

 やがて、リースのところに着くと当然のことながら負けた。

 全く。人間に勝てるわけないのに……。

 はあと溜息をつきながら、リースの傍に座るとそのまま後ろに倒れる。

「コトミちゃん! このリボンコトミちゃんにあげる」

 ふと、リースがコトミちゃんに声をかけた。

 起き上がって見ると、リースの手には飾り気のない普通の赤いリボンが握られている。

 けちなリースにしては珍しいことだ。

 天変地異の前触れかもしれない。

「へ! くれるの? わーい」

 コトミちゃんは笑顔で受け取ると、麦藁帽子に結びつけた。

「どう? リースさん。かわいい?」

「うん。とっても似合っているよ。コトミちゃん」

 リースの表情は相変わらず酒のせいで赤かったが、とてもうれしそうに笑っていた。

 ふと、軽く風が吹いて私に当たる。

 空を見上げると、その風に乗って何枚もの桜の花びらがまるで雪のように舞い降りてきた。

 

 

                                END         

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