正義の味方は時給850円 

 

                           作者 橋本利一

 

 

 ××××年 七月 十七日 (木) 晴れ

 

 

 今日も殴られた。

学校から帰ってきてすぐアノ人にお腹を殴られた。

理由はくだらないこと。あまりの痛みで忘れてしまった。

とっさにお腹を押さえてその場にしゃがみこむ。

半端じゃない痛みがお腹を襲う。

急に胃がムカムカしてきて、喉元まで胃の内容物がせり上がってきた。

たまらなくなって、びちゃびちゃと嫌な音を立てながら口から昼食を床に撒き散らす。

すると、アノ人はチッと面倒くさそうに舌打ちをした。

そして荒々しく私の髪を無理やり引っ張って、

貴様ああ! 床を汚しやがって、綺麗に拭きやがれ」

 と怒鳴りながら突き飛ばした。

 ドンと背中が壁に当たり息が止まる。

 アノ人はそんな私にチラリと目をやって玄関から外に出ていった。

 涙がぽろぽろと流れてくる。

 私はそのまま風呂に駆け込んだ。

 吐瀉物で汚れた制服洗濯に突っ込み、熱いシャワーを頭から被る。

 なんで、私だけなんだろう……。なんで私だけこんなに不幸なんだろう。

 学校のみんなは本当の私を知らない。学校では女子の中心にいる私がこんなにも弱くて不幸だなんて知らない。恐らく彼だって……。

 気づいたら私は剃刀を握っていた。

 左手首には一生消えないであろう剃刀の傷跡が何十にも刻まれている。

 私はそんな左手首に剃刀を当ててスッと引く。

「――――ッ!」

 生暖かい液体が傷口からトクトクと流れ出して肘に伝う。

 ゾッと電気のようなものが全身に走り、皮膚鳥肌になる。

 その赤い液体を見ると、とても落ち着く。

「生きてる……私は生きてる」

 何度も何度も死にたいと思った。

 首に縄をかけてみたり、いつもより深く手首を切ってみたり……。

 でも、情けないことに勇気がなかった。

 自分という存在が消えるのが怖かった。

 そして何より彼が悲しむのが嫌だ。

 だからそんな弱い自分に罰を与えるために、そして、今日自分が生きていることを確認するために手首を切る。

 私は手首をぼんやりと見ながら呟く。

正義味方。来ないかな」

 物語なんて分かってる。

 でも、こんなに我慢している私のところに来ても罰は当たらないと思う。

 シャワーを浴びているために傷口が塞がりにくい。

 風呂の床にはいつの間にか赤い血溜りができていた。

 頭がクラクラして気持ち悪い。

 今日は少し出し過ぎてしまった。この辺で止めておこう。

 右手左手首を握り締め止血しながら風呂から出る。

「ふう」

 軽く息を吐いて洗面台の下から包帯を取り出して、左手首にきつく巻く。

 ズキズキと痛むがアノ人に殴られたお腹よりはマシ。

 包帯を巻き終わるとそのまま脱衣所に座り込んだ。

 床がひんやりとして心地よい。

 私はそのまま少しだけ目を瞑ることにした。

 

 

神楽! 気合入れて走れ。リレーメンバーから外すぞ」

晴れていた。

綺麗な蒼が空一杯に広がって、雲は一つも見当たらない。

太陽は真上にあり、光がまるで矢のように僕の皮膚に突き刺さる。

普段の僕なら迷わずに白旗を揚げて降参するだろう。

しかし今は駄目だ。

今休んだらリレーメンバーから外されるのは目に見えている。

だから、今だけは抵抗することにすることにした。

神楽先週よりタイムが落ちてるぞ」

 サングラスをかけた中年男性教師が声を張り上げる。

 彼の授業はいつも退屈極まりないのだが、部活の時は人が変わったように熱が入る。

 彼のおかげでこの陸上部は毎回大会出場を果たしているのだから、ありがたいことはありがたいのだが……厳しすぎるのもどうかと思う……。

 僕は今、高校ラウンドで百三十メートルの走りこみをしている。

 普通リレーというのは四百メートルのトラックを四人で走る。

 三十メートル余計に走ることによって持久をつけるのが目的らしい。

 僕のポジションアンカーだ。喝采を浴びながらゴールラインを一番で駆け抜けるのはとても楽しいが、先ほどの顧問言葉通り最近の僕はタイムが良くない。

 練習をサボっているわけではないのだが、なぜかタイムは下降気味である。

神楽! 学校の外周十周して来い。真剣に走れよ。明日から夏休みなんだから浮かれるなよ」

「はい」

 先ほどから黙々とダッシュを続けていたのだが、どうやら明日からの夏休みに浮かれていると思われたらしい。

 他の部員は僕の方を見ながらニヤニヤと笑っている。

 恐らく、「要領の悪いやつだ」とか言われているのだろう。

 確かに無駄ダッシュとかせずに無難にこなしていればこんなことにはならなかったはずだ。

本当僕って駄目だな……」

 僕はわざとらしく溜息をつきながら、スパイクを脱ぎ捨て少し汚れたランニングシューズに履き替える。

 ランニングシューズの紐を結び終え、校門に向かおうと前を向く。

 そこには人がいた。

 学校指定のダサい体操服を着て、肩まで届く黒髪は赤い髪ゴムでツインテールに結んでいる。そして両手首には恐らく汗を拭くためであろう緑のリストバンドをはめた少女がニコニコと笑っていた。

「やあやあ健くーん。お疲れかな?」

「う、うるせえ」

 彼女名前氷室優花。我が陸上マネージャーにして僕の彼女である。

 悲しいことに、優花とはまだ手を繋いだことすらない。

 でも彼女とは話しているだけで楽しい。だから無理に手を繋ぐことも、キスを迫ることも必要ないかななんて思っている。

「うるさいとはよく言うわねぇ。心配して言ったのにぃ」

「うっ――――ご、ごめん」

「いいよ、気にしてないから。それより早く走ってきた方がいいと思うよぉ」

 優花はラウンドの方を指差しながら笑っている。

 振り向くと顧問がこちらの方をジロリと睨んでいた。

「やばッ!」

 唯でさえ目をつけられているのに、このままじゃ恋愛禁止にされかねない。

 僕は「また後で」と呟くと、優花は親指を上げてグッドラックのサインをしてきた。

 本当に面白いやつだ。

 僕は優花に後ろ髪を引かれながらも、校門へと走っていった。

 

 

       * *

 

 

「よっしゃあ! 部活終わったぁ」

「はいはい、健くんお疲れ」

 太陽が西に傾き、空は赤く染まっていた

 蒼い空は好きだが、僕はこの真っ赤な空の方が好きだ。

 理由としては彼女との帰り道が良い雰囲気になるからだ……。

 先ほどからアブラゼミの声がうるさい。

 まるで今から一週間貴重な夏休みに入る僕らをうらやましく思って、駄々をこねているのかもしれない。

 僕は今ようやく部活を終えて優花とともに家路を急いでいた。

「健くーん! 今週は何か予定はあるの?」

今週? 特にないけど……ウチは墓参りとか行かないし。宿題八月十一日に徹夜でやるからね。短期バイトするんだ」

「バイトぉ? いいないいな。優花もバイトしたいー」

 優花がまるで子供のように駄々をこねる。

 全く、教室では女子のリーダ的存在でクラスを仕切っているのに……本当に女は分からない。

 もしかしたら本物の優花はもっと別の性格なのかもしれない。クラスの連中の前でも僕の前でも仮面を被って本当自分を隠しているのかも……でもそしたら本当の優花はどんな性格なんだろう。

 そんなことを考えながら、僕は優花に今週予定を聞く。

「優花こそ今週はどうなんだ? 暇だったら一緒にバイトしないか?」

 頭が僕の肩までしかない優花を見下ろしながら言った。

「もちろんない――――」

 そこで優花の急に表情が険しくなった。

 そしてすぐにまた満面の笑みを浮かべる。

 ほんの一瞬だったから気のせいだったかもしれない。

「ごめんね健くん。優花ねー用事があるの」

用事? 僕はてっきり用事を聞いてきたからデートのお誘いかと」

 我ながら恥ずかしくなる。赤くなった顔をごまかすためにまだ頑張っている夕日の方に顔を向けた。

「もう! それはまた今度!」

 優花も顔を夕日に向けながらプクッと頬を膨らませる。

 いちいち仕草が可愛い。

 食べてしまいたいぐらいだ……。

 僕はそのプクッと膨らんだ頬に右手を添えた。

 優花がハッとしたように身を竦める。

 顔が近い……優花の大きな黒い瞳と小さく形のいい唇が目の前にある。

 そして……そして……。

「――――はう!」

 思いっきり僕は優花を抱きしめた。

 やはりキスはまだ早いような気がする。

 心臓ドクドクと速くなる。

 優花の髪からシャンプーの良い香りが鼻をくすぐる。

 初めて抱きしめた女性は温かくて、やわらかくて、とても小さかった。

 こんな小さな体で一杯生きているんだなぁと思うと、余計愛おしくなり更に強く抱きしめる。

「むう……健くん痛いよぉ……」

 とか言っても跳ね除けようとしない。

 もちろん僕も放すつもりはない。

「優花……次会えるのは来週だけど寂しくないかい? 僕が帰ったら泣いちゃったりしないかい?」

「む……な、泣いたりしないもーん」

 説得力はない。

 あまりの幸せで顔がニヤける。

 顔は僕の顔にうずもれていて見ることはできないが、きっと顔を真っ赤にしているのだろう。

 しばらくの間僕らは歩道のど真ん中で抱き合っていた。

 きっと年齢を重ねたらできないだろう。若いからなせる業である。

 そして僕はふっと彼女を放した。

 優花は顔を真っ赤にして泣いていた。

 もう太陽は僕らのラブラブぶりにあきれたのか、とっくに山の向こうに隠れている。

 それ故夕日のせいにはできない。

「じゃあな優花。また来週

 優花は真っ赤な顔を少し上げて、その黒い大きな瞳を僕に向けて呟いた。

バイバイ。健くん」

 そして彼女自分の家のほうに走っていった。

 踏み出すたびに大きく揺れるツインテールをぼんやりと眺めながら、僕はとても幸せだった。

 

 

       * *

 

 

 ××××年 八月 ×日 (金) 雨

 

 

 もう後戻りはできない。

 正義味方なんて来ない。

 いや、もしかしたらこの世界のどこかにいるかもしれない。

 しかし私を助けに来ない正義味方なんて唯の目立ちたがり屋でしかない。

 そんな正義味方なんていらない。

 正義味方がいないのならば私が正義となる。

 私は夏祭りで買ったひょっとこのお面を顔につけた。

 そして黒いジャージに着替える。

 着替え終わると私は大きな鏡の前に立った。

 鏡からひょっとこが私を見ている。

 情けない私を、弱い私を見ていた。

 鏡の向こうのひょっとこが口を開く。

正義味方が助けに来たよ」

 そして、ひょっとこは右手を持ち上げた。

 そこには銀色に光る料理用の包丁があった……。

 

 

       * *

 

 

「あーはい、神楽ですけども……あ、コンビニの店長さん? ええ、はい。え! 短期バイト

の件無しにしてくれって? 奥さんが急病で倒れた? えー、はい。……そうですか。わかりました」

 携帯を切る。

「はあ」

 僕は盛大溜息を吐いた。

 そして腹のそこから沸々と湧き上がるものを吐き出すために、大きく息を吸い込む。

「くそおおぉぉぉぉ」

 叫んだ。

 空は相変わらず綺麗な蒼が広がっていた。

 空も僅かな休みを祝福してくれているようである。

 しかし、僕の心は曇天であった。

 決まっていた短期バイトが店長の都合で急遽なしになったのである。

「はあ……」

 再び溜息を吐く。

 短期バイトが無くなったことは、バイト代を当てにしていた僕にとって相当痛手だ。

来週優花にプレゼントするはずのネックレスが買えない……」

 頭を抱え込みそのまま自分のベッドに倒れこむ。

 まずい。非常にまずい。

 来週曜日は優花と付き合い始めて一周記念なのだ。

 その記念に二人で喫茶に入って、優花が前から欲しそうにしていたネックレスプレゼントして、いろんな話をして、さりげなく手を握り、あわよくば唇にキスをして、それから、それから…………。

「うがあああああああああ、きたああああああ」

 意味のない奇声を発して、ベッドの上でうねうねと身を捩る。

 窓を見ると公園で小学生くらいの少女キョロキョロと辺りを見回していた。

 どうやら外まで聞こえたようだ。

 僕は身を捩るのを止めてガバリと立ち上がった。

「こうなったら、町中の店を探し回ってやる……」

 今の僕は冷静じゃなかった。

 そんなことは無駄だと脳が判断する前に、僕は自分部屋を飛び出していた。

 

 

「って……その場で採用なんてねえよなあ」

 店を二十軒近く回った辺りでようやく僕の脳は無駄なことをしていると判断した。

 陸上部で走りには自信があったが、距離はいささか苦手だ。

 即効で採用してくれるような店がない現実を知ると、なんだかとてもバカバカしくなり走る

のを止める。

「はあ……はあ……はあ……」

 結構走ったので息が上がる。

「はあ……休憩……」

 近くに公園が見えたので、中に入り、木製のボロいベンチに座り込む。

 見事に寂れた公園だった。

 砂場とさび付いた滑り台にブランコという、子供が即効で飽きそうな公園だ。

 しかし、疲れている僕にはそんなことどうだってよかった。

 道端で倒れこむよりははるかにましだ。

 多少喉が渇くが、自販機はおろか、水道すら見当たらない。

 ベンチに座ったら額から汗がどっと滝のように流れ出した。

 ハンカチなどという気の利いたものはないので、自分水色のTシャツで拭く。

「暑いな……」

 息は徐々に収まってきたが、今度は暑さが全身を貫く。

 急に頭がくらくらとしてくる。全身から汗が噴出している。

「もう駄目だ」

 そう呟いた瞬間

 頬に冷たい何かが当たった。

 しかし、それが何か判別できない。

 その時、自分より少し高い声が聞こえた。

「水。飲んだ方がいいと思うけど……」

 冷たい物が渡され、とっさにふたを開けて口をつける。

 冷たい水が口から入り、全身に行き渡っていくのを感じる。

 二リットルあった水を半分ほど飲み干したところで、ようやく口を離した。

 頭が正常に動き出す。

 そして、僕は初めて命の恩人認識した。

 その人は女性だった。

 背はスラリと高く、痩せていて、春の若葉のような色のワンピースを着ている。髪は黒く、

その先端は腰の辺りで風に揺れていた。頭には麦藁帽子が載っていて赤いリボンが巻きつけて

あった。

 そして、なんといってもワンピース越しからでも十分に大きい胸が僕の眼に飛び込んできた。

「飲んだ? 今あなたに死なれちゃとっても困るわ」

 女性微笑みを浮かべて、僕の手からペットボトルを取り上げる。

 そして口をつけて飲んだ。

 か、間接キスうううううぅぅぅ?

 心の中で叫ぶ。

 再び汗がブワッと噴出した。

 女性は水をすべて飲み干すとペットボトルを投げ捨てた。

 そして、水で濡れた唇をなめながら呟く。

「あたし、琴美。行商をやっているわ。よろしく」

「え、あ、ぼ、僕は神楽健っていいます。高校生です」

 ぎこちない口調で喋りながら、琴美と名乗った女性を見るとどうしても豊満な胸に眼が行っ

てしまう。

 その目線に気づいたのか、

「しょうがないわ、神楽君。男ってみんなそうなのよ」

 と言ってクスクスと笑った。

 なんだか少し悔しい。

 眼を無理やり引き離して、そっぽを向く。

「可愛いわね……」

 またクスクスと笑いながら、僕の隣に座ってくる。

 香水の良い香りが鼻をくすぐる。

 優花とは段違いにいい匂いだ。

 僕はそっぽを向いたまま尋ねる。

「な、何か用ですか?」

「そうよ、用があるから神楽君の横に座ったんじゃない」

 ソロリと琴美のほうに目をやる。

 もちろん胸は意識して避けている。

 琴美はじっと僕の方を見ていた。

 顔が赤くなるのを感じる。

「て、手短にお願いします」

「うふ! 可愛い。仕方ないわね。実はあなたがバイトを探しているって言うのを小耳に挟ん

だのよ……どうかしらやってみる気ない?」

「どんなバイトですか?」

正義味方。時給は八百五十円よ。もちろん今週一杯でいいわ」

 生暖かい風が吹いた。

 琴美の髪が風に揺れる。

 あやしい。怪しすぎる。

 正義味方って何だよ……ガキ相手のショーか? 時給八百五十円っていうのも高い。危な

仕事とかじゃないんだろうな……。

 頭の中で信号が何個も点る。

 しかし、こんなチャンスは二度とないかも……うまくやれば優花にネックレスを買ってやれ

る。

 頭の中に住む悪魔が僕の耳にささやきかける。

「ど、どうしよう」

 腕を組み悩む。

 琴美は長い足を組み楽しそうに僕を眺めている。

 しばらくの間悩んでいると、隣に座っていた琴美が呟いた。

優柔不断ね……スパって決めなさいよ。――――仕方ないわねバイトを受けてくれたら、琴

美お姉さんが思いっきり抱きしめてあ・げ・る」

 頭の中で何かが音を立てて崩れた。

 男は色仕掛けに弱いことを認識させられる。

「や、やります」

 声が小さく震える。

 声が小さいのは男としての最後抵抗だ。

「え? 聞こえないなー」

 こ、この女意地い。

 仕方ない……。

僕は男としてのプライドを捨てた。

正義味方やります!」

「オッケー!」

あっという間に琴美に抱きしめられた。

 真夏でものすごい暑かったのだが、そんなことぜんぜん気にならなかった。

 目下頭にあったのは。

「む胸が当たってるううううううぅぅぅ」

 

 

 * * *

 

 

かぽっ……かぽっ……。

「で、神楽君。今回のお仕事は親から虐待を受けているとある女の子を救うことです。できま

すか?」

 琴美に抱きしめられてから一週間経った。

 あの後僕は鼻血が止まらず。

 クスクスと笑っている琴美に貰ったティッシュで一日中鼻栓をしている羽目になった。

 どうにか鼻血を止めた頃。琴美はようやく仕事詳細を話してくれた。

 内容は極めて単純なものだった。

 琴美が見つけた悪事を僕が正すというもの。

 聞いただけでは簡単そうだなぁとか思っていたのだが、ものすごくきつかった。

 万引きをした学校先輩から商品を取り返そうとして蛸殴りになりながらも取り返したり、道に迷った老婆を六時間かけておんぶで家に運んだり、ゲイの銀行強盗人質に取られていた

女性と変わって貞操を奪われそうになったり、飛び降り自殺をしようとしていた人を止めようとして誤って自分が落ちそうになったり、火事現場に飛び込んで赤ん坊を助けたり……幸い死ぬことはなかったが、心と体に数え切れないほどの怪我をした。

その度に琴美がクスクスと笑っていた。少しムカッとしたがちゃんとお金はくれるので我慢している。

 そして、今日は僕が正義味方でいる最後の日。

 明日はお色気ムンムンの琴美ともお別れである。

 相当ひどい仕事だったので寂しさのかけらもない。

神楽君? 聞いてる?」

「ん? え、はい」

 僕は今馬車の上にいる。聞いたところによると琴美の愛車(愛馬)らしい。

こんな時代馬車国道走るのを初めて見たが、誰も止めないのであんまり気にしなくなった。

 おまけに馬の蹄が地を叩く音がとても心地よいので、むしろ好きになったくらいである。

「でー女の子を救うんですよね?」

「そうよ。たぶんこれが最後のバイトになるわ。気を引き締めて死なないようにね」

 琴美が行商台から荷台に向けて笑みを浮かべる。

 悪魔微笑みにしか見えない……。

 そう心の中で呟いたとき馬車が止まった。

 行商台から琴美が降りる音が聞こえ、やがて荷台の扉が開く。

 生暖かい風が琴美の香水の香りとともに荷台の中に吹き込んだ。

「着いたわ。さあ降りて降りて」

 琴美が僕の手を引っ張り、無理やり外に引きずられた。

 外に出ると、空は曇っていた。

 雨が降りそうなほど空が黒い。

 僕はそんな空に一瞥をくれると、少女がいるという家を見た……。

「こ、これは……」

 それは紛れもない、見間違えようもない人の家だった。

 一様表札確認する。

「ひ、氷室……」

 嫌な汗が背中を伝う。

「な、なんで……」

 たまらなくなりコンクリート地面にへたり込む。

神楽君。実はねこれが本当のお仕事なのよ」

 琴美の淡々とした声が耳に届く。

 その時冷たいものが頭に当たる。

 空を見上げると、夏なのに冷たい水滴がポツリ、ポツリと地面に振り注いできた。

先月、あたしは優花に出会った。優花はあたしに取引を持ちかけたの。お父さんの命をあげ

るから、優花を一生守ってくれる正義味方をくださいってね」

「で、あたしは条件をつけた。お父さんの命はあなた自身の手で奪いなさい。今の状況打破

したければ自分で蹴りをつけなさい。そうすればあなたを守る正義味方をあげましょうって

言ったわ。そしたら彼女は笑顔で了承してくれた」

 雨が地面に叩きつけられるほど強くなってきた。

 琴美も僕もびしょぬれだが、気にもならない。

 僕はへたり込む地面から前を向いた。

 そして…………。

「優花ッ――――――――――――!」

 玄関を蹴破らん勢いで、走り出す。

 雨で靴がすべりこけるが、立ち上がり玄関たどり着いた。

 思いっきり玄関の戸を開ける。

 すると、むせ返るような血の臭いが鼻についた。

 最悪の事態が頭をよぎる。

 廊下を抜けて、リビングに走りこんだ。

 リビングに近づくにつれて、血の臭いが強くなる。

 そして僕は初めて惨劇というのを目にした。

 血 血 血。

 血液が壁中に跳ね返り、壁が元の色が分からないほど赤く染まっている。

 床も同様に赤く染まっていて、まさに血の海になっていた。

 その真ん中に先ほどからひょっとこのお面を被った少女右手包丁を持ち、見るも無残な

肉の塊に何度も何度も突き刺していた。

「死ね、死ね、死ねえええええええぇぇぇぇぇ。優花を殴るな、苛めるな、蹴るなあああぁぁ

ぁ。二度とこの世に生まれて来くんなああぁぁ」

 その様子を僕は見ていた。

 僕の大好きな優花が汚い言葉を吐きながら、死体刃物を突き刺すのを見ていた。

 怖かった。

 そんな優花がものすごく怖かった。

 思わず一歩後ろに後ずさる。

 ギシリ。

 床のきしむ音が聞こえた。

 優花の右手が止まる。

 僕は慌てていつもの笑顔を顔に貼り付けた。

「優花……」

 そして、優花は静かにこちらを見た。

 左手でひょっとこのお面をはずす。

 優花の顔は涙と血でぐちゃぐちゃになっていた。

 しかし表情は憎しみで満ち溢れていた。

 大きな瞳は光が無く、これでもかとばかりにつり上がり、歯を剥き出しにして僕を睨んでいる。

 そして、綺麗で形のいい口が開いてまた優花が汚い言葉を吐く。

貴様ぁぁぁ。生き返ったのか! あんなに、あんなに、刺したのに、砕いたのに、切り刻んだのにぃぃぃ。死ねぇぇ。生き返るなら、何度でも殺してやるううぅぅぅ」

 僕は逃げなかった。

 物凄く、物凄く怖かったが逃げなかった。

 大好きな、大好きな優花がこんなにも苦しんでいるなら僕はすべてを受け入れる。

 僕は笑みを浮かべた。今度は本当の笑みだ。

 優花は支離滅裂なことをわめき散らしながら、包丁を僕の方に突き出し、突進してきた。

 笑みを浮かべながら一杯歯を食いしばる。

「――――ッ!」

 ものすごい激痛が走った。

 包丁は腹に刺さった。

 腹が焼けるように痛い。

「――――け、け、健くん?」

 僕に抱かれるようにして、もたれかかっていた優花が小さく呟く。

 大きな黒い瞳が僕を見上げ、そして自分が指した腹を見る。

「嫌あああああぁぁぁぁぁ。健くん、健くん」

 優花が僕から離れて、肩をゆする。

 僕はそれに答えようと声を出そうとするが出ない。

「健くん! ごめんね。ごめんね」

 意識が徐々に薄れ始める。

 僕は虐待に気づかなかった。

 優花のことが好きならすぐにでも気づけたはずだ。

 なのに気づかなかった。

 これはそんな僕への罰なのかもしれない。

 震える手を優花の頭に載せて撫でる。

 そして、優花の耳元で小さく呟いた。

「優花、ごめん……」

 そして、僕の意識はまるで深い海に沈み行くように途切れた。

 

 

       * *

 

 

 

Six years later

 

 

「健くん! 愛してるよ」

「優花僕もだよ。優花のためなら死ねるさ」

「むう……死んじゃいやぁ」

 あの事件から六年が経った。

 あの後僕は奇跡的にこの世に生還を果たした。

 話に聞くと、何度も心臓が止まったらしい。

 優花はもちろん逮捕されて、裁判にかけられた。

 殺人という罪はとても重いが、虐待事実が分かり、犯行当時心神喪失状態であったことも分かったので無罪になった。

 今は月に一度精神科医のカウンセリングを受けている、

 高校無事卒業し、僕は大学に行き大手企業就職した、優花は僕のアパートに住み、バイトをしている。

 僕らのアパートはボロイがとても幸せだ。

 毎日うまい飯を作ってくれて健気に笑顔で会社へ送り出してくれる。

 それだけでとても幸せだ。

「健くん会社遅れるよぉ!」

「へえへえ」

 笑顔の優花からカバンを受け取り玄関に立つ。

 そして僕はだいぶ大きくなった優花のお腹に手を当てる。

「行って来ます。僕のベイビーと愛する優花!」

 そしてニコニコの笑顔の優花の唇にキスをする。

 最初のキスは歯が当たってうまくできなかったが、今ではとてもうまくできる。

 顔を離すと優花の顔が茹蛸のように赤くなった。

「むう……また妊娠しちゃいそう」

 ずっこけた。

 優花がペロリと可愛く舌を出す。

 ジョークか……。

 僕は笑いながら手を振ると玄関を開けて外に出た。

 空が蒼い。

 こんな青空を見ると、あの行商人を思い出す。

 あの後家給料の入った封筒を残して琴美は姿を消した。

 あいつは何者だったのだろう。

 本当行商人なのだろうか?

 今度もし会うことがあったら何て言おう……。

 そんな思いが心を錯綜する。

 しかしこの六年間彼女を見たことは一度もない。

 だからもう会うことはないかもしれない……。

 僕はもう一度空を見上げた。 

 そしていつもの祈りを口にする。

「どうか、僕と優花と僕らの赤ちゃんが幸せでありますように……」

 そして僕は今日という日を生きるために踏み出した。

 

 

                                    END

 

 

 

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